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ビジョンと目標がないと混迷する。
20代の失敗を教訓に新たな人生を拓きたい。

宮田 哲郎

一風堂事業本部

東日本第4チームリーダー

目標を持てずにその日暮らしの20代

宮田は、高校に入ると回転寿司店でアルバイトを始める。高校を卒業してからは、就職もせず高校時代のアルバイトを継続した。
20歳までの2年間は、その日暮らしのフリーターだったという。
これではいけないと奮起して、20歳になると眼鏡の訪問販売の会社に就職した。2人1組でペアを組み、1日およそ300件の飛込み訪問を続けた。体力とメンタルの強さが求められる仕事である。入社して3ヶ月は苦戦したが、コツを掴むと月200〜300万円の売上を上げるようになる。固定給+歩合制の利点を受け、かなりの給与を得ることができた。
その会社で3年ほど営業を続けて再びフリーターの仕事に戻った。
それから8年間ほど目標もなくフラフラした生活を送る。
「20代はダメな若者でした。そんな自分と生活が嫌になって定職に就こうと決心しました」。
そして32歳のとき力の源の社員試験にトライする。当時宮田は、祖母の介護を母と2人で担っていた。そのため移動を伴う社員の仕事には就けなかった。すると、アルバイトからやってみないかと誘われた。そして2011年、一風堂塩原本舗に勤務することが決まった。

一風堂で本当の仕事に触れる

塩原本舗で半年ほど勤務したのち、社員への希望を伝えて、店主店から直営の山王店へと配属が変わる。当時の状況を宮田は語る。
「大変でキツかったですね。現場で何をしたらいいのかまったく分からず、パンクしたまま1日が終わる感じでした。塩原本舗では店主の藤瀬さんからは色々と指導されましたが、何を言われているのかも分かりませんでした。『そんな仕事をするな』との言葉に、考えさせられることも度々でした。今なら理解できますが、仕事に対するこだわりや基準を指摘されていたのだと思います」。
宮田はこれまで仕組みの中に収められて仕事をしてきた。作業を手順通りにこなせば、さほど問題にはならなかった。一風堂での仕事は、気づき、気配り、先読みが求められ、それらは“お客様のために”へとフォーカスしている。
自分の仕事に対する感覚とのレベルの違いを感じたという。

2013年になると新業態の新店、こちゃ麺亭の立ち上げに入る。
そこで宮田は叩きのめされたという。
「忙しさにかまけて焦げた餃子を出してしまいました。そのとき吉田部長の逆鱗に触れました。吉田部長は『そもそも食べもの屋でありながら、不味いものを出してお客さんが来てくれるのか。なっとらん。そんな仕事はするな』と。20日間ほど現場にいましたが、打ちのめされて山王店に戻りました」。

店長の仕事を先輩に学ぶ

2014年8月に熊本十禅寺店に入ると宮田は、大名本店での経験を伝えつつ、とにかく手洗いの徹底を強制した。たとえ嫌われたとしても、それが自分の使命だと思い貫き通した。
熊本でも一風堂は有名店だった。それだけお客様の期待値は高く、熊本十禅寺店は開店当初からクレームが絶えなかった。そんな課題を抱えつつも宮田は熊本十禅寺店の店長を任されることとなる。そこで十禅寺の暖簾分け店主に決まっていた河原慎治から店長の仕事についての指導を受ける。
「私は目標も作れず、目の前のことにひたすら向き合うことしか出来ていませんでした。人に指示して任せることができず、何でも自分でやってしまうため、丸一日店にいるような状態でした。途方に暮れていた自分に慎治さんは分かりやすくマネジメントを教えてくれました。それは、自分のこれまでの人生を正してくれるような教えでした」。

ビジョンと目標を掲げてチャレンジ

それから宮田は、2015年7月に豊洲店の店長を、2016年6月には五反田東口店の店長を任される。そして2017年4月からは仙台市の2店舗と川越インター店を統括するチームリーダーとなる。宮田は語る。
「自分にビジョンと目標がないとスタッフはついてきてくれません。会社のビジョンと目標を把握して自分のビジョンと目標を作る、そして店長のビジョンと目標づくりをサポートする。そのような体系を整理しながら人を育ててゆくことがチームリーダーの仕事だと捉えています。20代は目標も持てずフラフラしていた自分がこのような立場に立てたのも、力の源と尊敬する先輩達のおかげだと感謝しています。その恩に報いるためにも、業績で示してゆきたいと考えています」。
宮田は、人との関わりを大切にする力の源が大好きだという。今まで多くの先輩達から教えてもらったことを、今度は自分が後輩に伝えていきたいと言う。チームリーダーという現場の先頭に立って、自分の人生と力の源の未来を見つめ、成すべきことにフォーカスしている。