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後輩たちを育てながら、
自分の手で力の源を運営できるように支えてゆきたい

坂下 大樹

商品開発グループ

日本を出てオーストラリアで学ぶ

勉強が大嫌いで、尖ったやんちゃ、ギターとパンクロックに夢中な中学時代の坂下大樹は、光が見えない苛立ちのなか、エネルギーを持て余してくすぶっていた。
「日本にいても未来が見えない」。坂下はそう考えて、生まれ育った福岡を後にした。
行く先はオーストラリアのメルボルン。坂下が16歳を迎えた年であった。
メルボルンはオーストラリア第2の経済都市で、観光をメインとして多くの留学生を受け入れていた。
坂下はメルボルンの小中高一貫校を選択して、入学するため併設されている語学スクールで初級英語を学んだ。通常3ヶ月の期間を要するが、坂下は1ヶ月半で基本を習得して高校の普通クラスに編入した。
「僕はそれまで日本で勉強が好きじゃなくて英語をまったくやっていませんでした。文法とか公式とか、そんな知識は全くありませんでした。スポンジが水を吸収するように、英語を体全体で吸収しました。ホームステイの家族と話したり、ローカルの友達と放課後つるんだり、電子辞書の単語を念仏のように唱えたり、我流ですが急速に上達しました。」
坂下は、自分が好きなこと、興味を持ったことに対しては強烈に集中できると言う。おそらく、小さな子供が自然に言葉を覚えるような感じで、英語の習得を短期間に成し遂げたのであろう。
およそ2年間半オーストラリアの高校に通った後、1998年に米国サンフランシスコ郊外の高校に編入し卒業する。2つの国の高校で学んでの卒業は珍しいケースに違いない。

TVで見た河原会長に憧れ力の源の門を叩く

米国での学びを終えると坂下は、オーストラリアに戻って日本食レストランで仕事をしながら調理技術を学ぶ。寿司、鉄板焼き、創作料理など日本食全般の知識と技術をたくわえながらシェフとしての経験をメルボルンの日本食レストランで重ねてゆく。
そして、2009年現地で知り合った女性と結婚して一児を授かり、妻の希望を受けて日本へ帰国する運びとなる。
坂下は日本での仕事をWEBで探していた。そのとき、力の源の代表河原成美の写真に出会う。オーストラリアで視たTVチャンピオンの勝者・河原成美に出逢いその姿を覚えていた。オーストラリアにも日本の番組を録ったレンタルビデオ屋があり、TVチャンピオンは見ていた。その映像が重なり、力の源の門を叩くことになる。
第3次面接で河原会長と対面する。面接は1分程で終わり、翌日テストキッチンでラーメンとチャーハンの調理試験が課せられた。全く経験のない坂下が作ったチャーハンは極度の緊張もあり散々な出来だった。
坂下は失敗したと思いオーストラリアへ帰る準備を始めていた、そんな折、力の源から内定の連絡が入った。そして、経営方針発表会が坂下の初出勤となった。その開場で河原会長は言った。
「あのときは、何も出来なかったな。味は悪くない。お前は調理を勉強しろ」

超便利屋、坂下大樹

それから坂下は様々な現場を経験することになる。いや、それぞれの現場に引っ張り出されたと言った方が良いだろう。
2011年2月、坂下は店長不在の京都五行に配属された。
同年6月には西麻布五行に移動する。店長は永井達也、二人で良い店を作ってゆこうと語り合う。そして11月、福岡中洲の奉天本家の立ち上げを命じられる。その3日後には商品開発も担当せよと言われ、翌年2012年5月まで安濃サービスエリアにて立ち上げをする。そして8月には、こちゃめん亭1号店の立ち上げ、10月には銀座・博多のチカラのサポートを命じられる。
そして同年12月には奉天本家に戻ることになる。店長の小林大輔がグローバルの商品開発に移動となったためである。
翌年2013年1月、坂下は奉天本家の店長となる。それから1年、坂下は懸命に働いて、奉天本家の売上げを400万円から800万円へと倍増させる。
坂下の移動はさらに続く。2014年に江端を奉天本家の店長に上げたのち、低迷するこちゃめん亭2号店を商品サポート、さらに9月〜10月には新横浜ラーメン博物館のNARUMI IPPUDOの立ち上げに参加する。
2015年4月には国内商品本部に戻り、7月からはロンドン2号店の立ち上げ、10月には日本に戻り東京ラーメンショーに参加する。ここでは、フランス、シンガポール、マレーシア、オーストラリアのスタッフを指導しながらラーメンショーの運営に携わる。11月から12月にかけては、シンガポールで翌年のために研修しつつバンコク3号店の立ち上げに尽力する。
そして2016年、日本国内の商品開発の任に就いた。

河原会長の教えを素直に実践する

めまぐるしい移動である。
「自分は超便利屋です」と坂下は語る。
得るものはあったか…の質問に対して、
「人間関係につまずきながら、いろんな人たちと関わってきました。人それぞれに色んな思いや考えがあります。その中で、自分の立ち位置、ポジションが見えてきたように思えます。坂下大樹のポジションでしょうか。」
そんな状況の中でも、河原会長の教えは坂下を支えてきた。
奉天本家では店長になったばかりの坂下に、河原会長は次のように語った。 「お前には料理の力はある。これからは商売を学べ。料理を作るだけじゃなくて、どういう人たちに食べてもらいたいのか、またお客さんが何を求めてるのかをお客さんの反応を見て、全力でやってみろ」。その教えを守って売上げを倍増した。
今年の年明けには坂下は次のようなアドバイスを受ける。
「お前の実力は分かっている。だが言葉を大切に、態度を丁寧に、人との摩擦をなくせ。そうすれば、みんなお前を受け入れる」と。
その言葉を常日頃から意識して言動することにより、まわりとの関係も良くなってきたという。人間関係に対して慎重になることで、坂下は新たな学びを得たようだ。

「人生の半分以上は反発していました」と坂下は言う。それは大人の世界、既存の人間関係に対する反発かもしれない。しかし坂下も今は大人の仲間入りをしようとしているのである。その年齢に足を踏み入れているのである。
「国内においては、かつての先輩たちが暖簾分けに出たり、海外に出たりして、総合的なパワーが落ちています。後輩たちを育てながら、彼らが力の源を自分の手で運営できるように支えてゆきます。私はそれを商品力を育てることを通して貢献してゆきます」
最後に坂下は語った。
「実績を残して少し落ち着いたら、自分の得てきたものが活かせる海外エリアにもう一度挑戦したいですね。」。