来れ!九州人
「天職に出会いたい」一風堂・店主の原点
其の弐 一風堂のオヤジと息子たち キツイぞ。でも面白いぞ。本気でやりたいヤツとだけ、仲間になろう。
ここは、ラーメン屋の姿を借りた、食文化創造企業だ。
始まりは26才 5坪のレストランバー
毛利: まず、起業されたきっかけを聞かせてください。
代表: 僕が初めて自分のお店を作ったのは、1979年。美香ちゃんは何年生まれ?
毛利: 1985年です。
代表: ちょうどその年は僕が一風堂をオープンした年だったね。最初のお店はレストランバーで1979年の11月16日、26才の時にオープンしました。僕が九州産業大学を卒業した当時は流通とか外食が花形の職業で、いろんなところが流通革命とか言っている時代でした。僕も福岡で就職してスーパーマーケットで働いて、それからいろいろあって26才で飲食店をオープンすることになりました。もともと料理を作るのが大好きだし、学生時代はコックの見習いや飲食店のアルバイトばかりしてたから、飲食業に不安はなかった。それで最初に開いたのが「AFTER THE RAIN」という5坪くらいの小さなレストランバーでした。

目標を掲げてからの新たな挑戦 ラーメンを選んだ理由
代表: 最初の会社を退職してから、昔やってた飲食業のアルバイトにもういっぺん帰って働いてたら、26才の9月くらいに兄が、お店をしないかという話を持ってきたんだ。僕が高校と大学の時にやってたお芝居をちょうど再開して、東京に出て裏方でも何でもいいから劇団に入ろうと決心を固めてた時に、兄が話を持ってきて。随分考えてお店をしようって決めたんだ。僕は挫折も経験してきたから、絶対に成功させようとこの仕事にかけた。そのためにまず自分で目標設定をしたのね。27でこの仕事を始めたから、33才になったらもう1軒店を出す、35才になったらまた出すぞとか、3年間は休まないで仕事をするぞとかを決めたの。AFTER THE RAINにはたくさんのお客さんが来てくれて、小さな店は大きくなりました。でも、次は何か全然違う仕事をしようと思って。難しそうだけども楽しそうな仕事、それが僕にとってラーメン屋のオヤジだった。それでラーメン屋を始めたんだ。一風堂をオープンしたのは、ちょうど33才になったら、っていう目標の時だったね。
天職に出会えた瞬間、心からの「ありがとう」
岩下: 僕は代表のいくつもの「ありがとう」についてのコラムに感銘を受けたのですが、ぜひそのお話を聞かせてください。
代表: 僕が27才の時にたてた35才の目標は、漠然としてるけど「自分のこれが天職だっていうものに出会う」だったんだ。ずっと出会うはずだと思いながら働いてきて、35才で爽風亭という一風堂とはコンセプトの違うお店を作った。だけど、これが天職だ、答えだとは思えなかったのね。本当はそこで天職に出会うために目標を立て直せばよかったのに、成功したお店が3軒あることの満足と、小さな成功と少しの忙しさにかまけてしまって、目標を忘れて再チャレンジしなかったんだ。それから、目標をなくしたことで僕自身が崩れてしまった。37才の時に「松の湯」を作ったり、お店は増えていくけど目標はない。なんでこんなことしてるんだろ。もう全部辞めようとも思ったんだよ。お店の運営がうまくいかなくなってきて、バランスが悪かったね。でも、その渦中にいる俺は何が悪いのかわかんないんだよ。だけど運が良くて、その間に当時フーズアミューズメントのはしりだった新横浜のラーメン博物館からお誘いがあって出店したんだ。全国から集まる7軒の中に一風堂も入って、すごくヒットした。おかげで業績は上がったんだけど、その時はまだ僕は「ありがとう」に気付いていなかったのね。でも、しっかりしなきゃと再度心に強く決めて、いろんな人の話を聞いたり本をたくさん読んで勉強した。それから、TVチャンピオンの「ラーメン職人選手権」の第2回大会で僕としては最初の優勝を果たしたんだ。44才の時、ちょうどAFTER THE RAINをオープンした11月16日に優勝して、その時はすごく嬉しくてね。それまでにもメディアに出たりはしてたんだけど、そういうこととはまったく違う喜びに包まれたの。北海道の松前で3地区に分かれて決戦があって、3人の職人が各エリアの食材を使ってラーメンを作る。そして200人の町民が3種類を食べてどれが1番美味しかったかを審査する方法で決勝が行われたんだけど、3地区それぞれの婦人会の人とかが各選手を3日間応援するのね。食材を集めたり加工を手伝ってくれたり、一緒にご飯を食べたり。みんなおじいさんおばあさんだけど、すごく可愛がってくれて。僕が優勝したら、自分のことのように泣いて喜んでさ。その時にね、初めて自分の天職は飲食業なんだって思ったの。それまで20年近くやってても気づかなかったんだ。でも案外、長く続けてきた仕事だったり、足元に自分の仕事ってあるんだ。僕が見えてなかったそれに気づかせてくれたのがすごくありがたかったし、大喜びして泣いて俺に駆け寄ってきて「おめでとう」「ありがとう」「うれしい」って言ってくれるのがありがたかった。僕の天職は飲食業、そしてラーメン、そして「ありがとう」なんだって本当に気づいたんだ。天職に出会うのを諦めかけた時期もあったけど、自分が計画した35歳からほぼ10年遅れで「これが天職」と思えることに出会えた。それからが「ありがとう」に気づいた人生の始まりだね。
未熟でもいい、一生懸命な大人になれ
岩下: 浅はかな考えかもしれないけど、僕はいろんな人に出会ってたくさんの笑顔を見たい。そして死ぬ時は「自分の人生すごく面白かったな」って思えれば人生満足だと現時点では考えているんですが…代表の人生の目標を聞かせてください。
代表: 僕も大輔くんと一緒。そんな風に生きたいと思っているだけだよ。自分はまだ若いから間違っているかもしれないとか遠慮して言うけど、でも今大輔くんが考えてることは正しいんだよ。年をとってないぶん、確かに未熟かもしれない。でも未熟なのと正しい正しくないは別。一生懸命考えた意見なら、それでいいんだ。年をとっていろんなことを経験しても、世の中に背を向けたつまんない大人はいっぱいいる。世間のことばっかり覚えて、自分の所属する会社のルールが100%本当だと思わないことだね。一風堂の社員にも、会社の決めていることがすべて正しいなんて教えてないんだよ。縁があってこの会社に集まってきた人たちが、どれだけ自分を解放して、どれだけ楽しい仕事ができるか、クリエイティビティのある仕事ができるかが僕にとっては問題なんだ。だからこれからも参加しているスタッフみんなが、仕事を通して「大人としてつまらない人間にならない」という考えを持ってもらえるような会社にしていきたいですね。

左から岩下 大輔 熊本学園大学3年
(株)力の源カンパニー 河原 成美代表
毛利 美香 中村学園大学3年

河原代表が答える!学生お悩み相談室
日常のなかで壁にぶつかった時 どうしたら困難を乗り越えられますか?

大変なことは今までもこれからもあると思うんだけど、僕はそれをあんまり困難とは感じないな。どっちかというと「コノヤロー」と悔しく思ったりする。いいことにもそんなに有頂天にならないし、悪いことがあったからってクシュンともならない。実体験は少ないけど、過ごしてきたきつい時期を土台に考えれば、人から見たら困難でもあんまり困難だと思わないんだ。困難や悩みって、失敗とか大変みたいなイメージだよね。でも困難なことは乗り越えないと物事はうまくいかないしさ。困難が大きい方が達成感があるし、山は高いほうが登った時気持ちいい。低い山に登っても低いところしか見えないし。高いところに行くのは大変だけど、見える景色はすごく広いよ。だから大切なのは自分の物事の考え方。若いうちはたくさん本を読んだりいろんなことをしてそこから吸収して、自分の考え方のコアを強く、堅くすることが大切だね。人間なんて、いつまで社会に対して自分をピシッと持ちながら生きていけるかだから。それを50年も60年もずっと考えながらやっていける人が、きっとオリジナリティの高い人生を送れるのだと思いますよ。


一風堂ヒストリー
次回の 九州人 採用・教育担当 山田 穣